今日は茶谷春奈さんにゲストスピーカーとして参加していただきました。
「多様性を自由に表現でき、受け入れあえる社会を実現できる教育のあり方」が主なテーマとなって議論しました。
子どもたちの多様性を受け入れ合う教育現場であるためには、以下のような学校現場の現状が課題だと茶谷さんは警鐘を鳴らします。
・詰め込み型教育
・先生が生徒・学生に一方的に教える
・試験や評価のために勉強する
という教育を
・多様性が受け入れられる
・生徒・学生の表現の自由
・理解しあえる
・学びたくて学ぶというモチベーション
へ。
子どもたちは学校で、教科の成績を評価されます。
成績だけでなく、良い生徒・悪い生徒や、「そんなことでは社会で通用しない」などと言った、人間性まで教師が評価していることも少なくありません。
この、大人が子どもを評価するという慣習が、私たちの日常に根強く定着しています。
だからこそ、私たちは日頃から正誤や優劣などのジャッジを他者に対しても、自分に対しても行っています。
絶対的な正しさなどないのに。
実はこの「ジャッジする癖」が私たちに多様性を許容することを拒ませ、私たちに生きづらい人生をもたらしているのだと私は考えています。
なぜなら、どちらが正しいか、どちらが優れているかをジャッジすると、誤っている劣っているとジャッジされたものは排除されるからです。
だから必死に、自分が正しいこと、自分が優れていることを証明しようとする。
どっちも正しいという答えもあるのに。
両方を組み合わせると、新しいものが生まれるということもあるのに。
多様性がベストシナジーを生む学校教育のあり方をつくるために、私が重要だと考えていることは次の2点です。
① 生徒の人格を評価しないこと
② 先生の多様性が許される学校であること
学校の先生が行う、教科の評価は、あくまでも教科に対する生徒の知識や技能を客観的に数値化したものであって、ただそれだけに過ぎません。
そもそも、その評価が正しいとも限りません。国語の読解力をテストで測ることができているかというと、実は記憶力を測っているだけだという実態もあります。
だから、定期テストでは高得点を取れるが、実力テストや模試など初見の問題にはサッパリといったことが起こります。
先述したように、学校の先生には評価癖があって、つい生徒のある一側面だけを見て、その生徒の人格を評価する傾向もなくはありません。
その際、先生の「正しさ」基準に満たない生徒が低評価を受けがちです。
そのような慣習が私たちに定着してしまっているため、ある特定の「正しさ」があるということに何の疑いもなく生き、「何が正しいのか」を求めて生きているように思います。
だから、「正しい子育て」が存在するように錯覚し、常に自分が他者から評価されている気がして、ママから自分らしい楽しい子育てを奪います。
そして実際、「お母さんがあれなんだから…」と評価されています。
私は、お母さんをジャッジするのではなく、なぜお母さんが子育てに困り感を抱いているのか、それを解消できる手立てはないかという「事実」と向き合うことの方が重要だと考えています。
大人が、子どもたちの人格を評価することが、あまりにもナチュラルに教育現場では起こっています。
その慣習を改めて、学校の先生は教科の専門家として事実を分析はするが、生き方や人間性については、子どもを評価する立場ではなく、より良い社会をつくる一員として共に影響し合う存在でいいと思います。
私自身、子どもたちに上から目線で教えるというよりも、お互いの意見を伝え合って、その時のより良い選択をチョイスするという感覚で生徒と向き合ってきました。
だからもちろん、生徒の意見を採用することも少なくありません。
上下関係なく、より良いものを選択するスタンスがベストです。
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